日本たべもの総覧
日本たべもの総覧(30)
江戸名物菓子【えどめいぶつがし】
江戸時代の本によると、当時名物といわれた菓子には次のようなものがあったという。
塩瀬のまんじゅう、金竜山のお米で作った米まんじゅう、白山彦左衛門のべらぼうやき、八丁堀の松屋せんべい、日本橋高砂屋の縮緬まんじゅう、麹町の助三のふのやき、両国橋のちぢら糖、芝の三宮あめ、大仏大師堂の源五兵衛餅などである。このうち、ちぢら糖、三宮あめ、源五兵衛餅などはわりと早く姿を消したようである。
助三の「ふのやき」はいわば大衆菓子の先駆者で、水で溶いた小麦粉の片面を焼き、味噌をつけて食べたものであるが、味噌が砂糖を使った「あん」に変わってから「きんつば」や「今川焼」が考案されたものであろう。助三のふのやきも、後には「助惣焼」と名を改めているが、その頃にはすでに「きんつば」の類であったとろうといわれている。
ところで、助三のふのやきが評判になると、味噌を胡麻に変える菓子もあらわれた。黒胡麻であるから色は黒い。
当時、江戸の見世物に「べらぼう」という畸人が出ていた。背は高いが全身まっ黒で、眼は丸くて赤く、あごは猿のようだったといい、有名であった。そこで、色が黒いところから、新たに創製した菓子を「べらぼうやき」と名付けたという。
なお、見世物の畸人はいかにも馬鹿の見本のようであったので、「べらぼう」は「ばか」「たわけ」の意味に用いられ、「べらぼうめ」というののしり言葉から、ついに「べらんめえ」に発展し、江戸っ子の口調を代表するまでになった。
洋菓子【ようがし】
明治維新後、欧米崇拝の風潮がおこって、やたらに舶来物が珍重されたが、洋菓子ばかりはなかなか日本人の口に合わなかった。というのは、長い間、獣脂を口にしなかった日本人には、ミルクとバターを使った洋菓子はなじみにくく、また粉食より粒食を好んだからである。
しかし、兵食にパンを用いたこともあって、日清戦争(1895年)の頃から日露戦争(1904年)の頃にかけてようやく洋菓子にも慣れ始めた。そこでこの頃、洋菓子を製造する個人商店ができ、さらに製菓会社も次々と生まれ始めた。とはいえ、この頃の洋菓子はビスケットやドロップなど、いわゆる洋干菓子が主であった。
やがて、大正から昭和にかけて喫茶店が数多く生まれたが、それらの店では、コーヒーと洋生菓子(ケーキ類)をおいた。さらに、当時盛んになったモダニズムの風潮が助長したこともあって、洋生菓子も、ついに日本人の口に合う菓子となった。第二次世界大戦後、洋菓子は古来からの和菓子とともにすっかり日本人の生活に溶け込んでいる。
月餅【げっぺい】
中国の菓子は、唐菓子の名で知られるように、早くから日本に入ったが長い歳月の間にあるものは捨てられ、あるものは日本人の好みに合うように改良されて、今日では純和風の菓子と見なされている。現在、日本で中国の菓子として賞味しているもののうち、代表格は月餅であろう。これは文字通り中国の月見用の菓子である。小麦粉を豚の脂で十二分にこね、皮付きの「なつめ」をいれた「あん」を包んで、上下から焼く。濃いうまさが独特である。このほか、近頃、街の菓子屋が「せいろ」でふかしながら売っている菓子に「中華まんじゅう」がある。高級なものから大衆向きのものまで幅が広く、ごくありふれた中国菓子である。「あんまん」と「肉まん」があって、日本人の嗜好がかなり変化したことを示している。
参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊