日本たべもの総覧
日本たべもの総覧(24)
有平糖【あるへいとう】
南蛮菓子の一つで、桃山時代に輸入されたという。語源はポルトガル語のアルフェロアで、アルヘールとも呼ばれた。作り方は、氷砂糖に水を入れ麦芽を用いず、鍋で煎る。卵白で砂糖のアクをとり、あめのように固める。赤や青の色をつけ、きわめて美しい飾り菓子として全国に知られた。三月の節供に供えたほか、日常、縁日などでも売っており、菓子職人の腕比べの観があったという。形は鯉やふな、竹の子、動物などさまざまで金花糖ともいった。
金平糖【こんぺいとう】
これも南蛮菓子の一種で、オランダ人から伝えられたといわれ、原語はポルトガル語のコンフェイトスだという。井原西鶴の「日本永代蔵」によると、球形全体にトゲが突き出たような仕掛けをいろいろ調べて見たがわからず、長崎から伝わった製法を知ってようやく作ることができたという。その方法とは、氷砂糖を水に溶かして煮詰め、小麦粉を加えたなかに、「ケシ」の実を入れ、一粒一粒にまぶしつけて、かき混ぜながら熱を加えるという。この方法がわかってからは値段も安くなり、大小さまざまに作って紅白にいろどり、子供用ばかりではなく、贈答品としても用いられた。明治になって、ほかの洋菓子がどっと輸入されたため、一時、影をひそめていたが大衆的人気に支えられて再び復活している。
餅菓子【もちがし】
餅および餅菓子は、日本固有の食品として古来より上下で広く用いられた。 朝廷では「福生菓」(ふくしょうか)と呼んで重んじ、「延喜式」にも記されているとおり、大学寮、神社、仏閣などで赤餅、黒餅、白餅など、いろいろの儀式の際に、定まった餅を用いていた。しかし、鎌倉時代には北条泰時が質素な生活尊ぶたてまえから、風流菓子の製造を禁じたことがあった。とはいえ、日本人の間に根をはった餅菓子への愛好は、権力者の政令で左右されるものではなく、その後も、民間では草餅などが作られた。また、室町時代になって、茶道の点心として用いられたこともあって、餅菓子はいよいよゆるぎなき地位をしめるに至った。
餅菓子を大きく分けると三種類になる。一つは餅のままで豆を入れた豆餅など。次が一般に餅菓子と呼ばれているもので、代表格の大福餅をはじめ、うぐいす餅など、あんを包んだものと、「おはぎ」のように、餅に「あん」などをまぶしたものがある。三番目は餅生類で「さくら餅」「くさ餅」「かしわ餅」「ちまき」「わらび餅」「しんげん餅」などである。
なお、大福餅は、江戸時代の明和年間(1770年)頃、小石川に住む未亡人が作り出したといわれ、後に京橋の風月堂が改良したと伝えられる。
餡【あん】
餅やまんじゅう、団子など、包んだりまぶしたりする練り物で、小豆を用いることが多いが、うずら豆、えんどう、白いんげんなど、豆類のほかにさつまいも、じゃがいもなど、いも類も材料になる。
「あん」には、「こしあん」と「つぶあん」の二種類がある。煮たままか、ひきつぶしても皮を取り除かない粒あんは、「田舎あん」とも呼ばれるが、古来、神事には「粒あん」をを用いるならわしである。あんは、鎌倉時代に中国から渡来したと思われるから、砂糖が広く用いられるようになった戦国時代までは、すべて「塩あん」であったと思われる。
参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊