日本たべもの総覧

日本たべもの総覧(3)

三回食【さんかいしょく】

一日の食事の回数は、古くは日の出と日の入りの2回であった。この風習は今なお神社で神に食物を供える場合に残っている。一日に3回食事をとるようになったのは鎌倉時代の初期、まず朝廷からはじまったといわれている。しかし室町時代でもなお武士など一般人は二回食であった。このように長い間二回食が続いたため、二回食が基準として考えられるようになり、一般に三回食が普及した江戸時代になっても、米で算出された武士の俸禄は二回食をもとにしていた。もっとも激しい労働を行う場合などはこの限りではなく、すでに平安時代から三回食をとったという記録がある。しかしそれは例外で正規の食事とは見なされなかった。

明治時代以降、夜なべ仕事など労働時間の延長にともなって夜食をとることも珍しくなくなっている。食糧事情の好転にともない、食事の回数を増やしてきたと考えられる。

茶がゆ【ちゃがゆ】

三回食は江戸時代に食習慣として広く一般の人々の間に定着した。しかし他の多くの食習慣と同様、同じ日本でも東西で相違があった。すなわち江戸では朝、米を炊くのが普通であるのに、上方では昼食に温かい飯を食べ、朝晩は冷えた飯で食事した。もちろん大店などでさ3食とも飯を炊くところや祭礼、その他特殊な場合もあったがいずれも例外であった。ところで京阪では寒い冬の朝など、さすがに冷や飯は敬遠された。そこで前の晩の残り茶を煮返し、その中に冷や飯を入れて粥にして食べる方法が考え出された。これが茶がゆの起こりである。やがて米から炊いて作る茶がゆも行われるようになったが、この方法は奈良のお寺から起こったため「奈良茶」と呼んで前の場合と区別した。奈良茶を作るにはまず茶を煎じて初煎と再煎に分ける。うすい再煎の茶に塩を加えて飯を炊き、炊きあがったら濃い初煎の茶につけて食べる。粘り気のない軽い風味が身上である。

白がゆ【しろがゆ】

「めし」または「いひ」は元来、甑(こしき)で蒸したもの=つまり「強飯」のことであり、「かゆ」は煮たものであった。それが後に硬い、柔らかいの度合いで区別されるようになり、今日では「かゆ」といえば、普通の飯より水分の多い半流動食をさしている。伝説によると奈良の大仏殿を造営する際、近隣の人々は「かゆ」をすすって米を喰いのばし、造営に協力したという。また太閤秀吉は昔の苦労を忘れないために、死ぬまで「かゆ」をよく用いたという。いずれも関西の話である。なお禅家では山門を登ってくる雲水の笠が見えるたびに米に一杓の水を加え、全山の者がひとしく「白がゆ」を食すといわれ、「一笠一杓」と呼んでいる。

八つ茶【やつちゃ】

八つどきには丑の刻(午前2時頃)と未の刻(午後2時頃)の2つがある。未の刻の頃に食べる茶漬け飯を「八つ茶」と称した。この時刻に間食をとりながら休息する習慣が広く行われるようになり、特に子供の食習慣として固定したのが「おやつ」(お三時)である。

参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊

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