日本たべもの総覧
日本たべもの総覧(23)
求肥【ぎゅうひ】
現在、一般には「求肥」の字をあてるが、昔は「牛皮」とも書いた。まだ白砂糖がなく、黒砂糖を用いていた頃から作られた上、製品はやわらかくて弾力があるので、文字通り、牛の皮のような感じがしたからであろう。また、「牛脾」「牛肥」の文字を用いたこともあったが、これは牛のように身を肥やしたい、という意味を込めたものであろう。
室町時代に、茶道の点心として用い始めたらしいが、広く知られるようになったのは、江戸時代に入ってからである。寛永の頃(1630年頃)、幕府の使節、松平伊豆守が上洛した際、初めて「ぎゅうひ」を味わったが、その旨さが忘れられず、江戸に帰ると、京都の名菓子司、中島浄雲を召し出して江戸で作らせたといわれている。製法は、白玉粉に水を混ぜてよく捏ねたものを、濡れ布巾を敷いた「蒸篭」で蒸す。それを臼でよく搗いた後、鍋に入れてとろ火にかけ、水・砂糖・水あめを加えながらよく練りまぜ、手に付かないくらいになってから、箱に取って冷やし固める。これを、「求肥あめ」または「求肥糖」といい、上等な菓子としてもてはやされてきた。有名な製品には熊本の「朝鮮あめ」などがある。
なお、現在は水あめを入れない、いわば純粋の「ぎゅうひ」も作られていて、いろいろな菓子に使われている。
砂糖菓子【さとうかし】
奈良時代から平安時代にかけて、中国から輸入された「唐菓子(からかし)」が次第に重んじられたが、一方では在来の餅菓子も徐々に発達した。ところが、やがて砂糖菓子が現れるに及んで、菓子といえば砂糖菓子をさすほど、広く知られるようになった。砂糖菓子は、まず乾(干=ひ)菓子と生(なま)菓子に分かれた。乾菓子は室町時代、茶の湯の発達にともない、点心として進歩したものである。また、京都の公卿たちの間では、「上菓子」が好まれた。これは天皇に献上した菓子の意味で、当時、少量だけ輸入された白砂糖を用いたのは上菓子に限られていた。したがって、黒砂糖を用いたものは「駄菓子」と呼ばれた。
南蛮菓子【なんばんかし】
室町時代から戦国時代を経て江戸初期に至るまで、西洋人の渡来にともなっていろいろ珍しい物がもたらされた。こうして、文化史上、南蛮時代ともいうべき時代が形作られる。絵画などの南蛮美術がよく知られているが、菓子の世界でも南蛮菓子が日本人の舌に新しい味覚を教えた。
当時、知られた菓子には今では忘れられた物もあるが、日本人の好みに合った菓子類、カステラ、ポーロ、コンペイトウ、カルメラ、ビスケット、パンなどは、その後も研究を加えられ、現在に及んでいる。このように、洋菓子が盛んになったのは、砂糖が大量に輸入されたこと、しかも白砂糖が、従来とは異なって、一般の人々にも手が届く物になったことが大きな理由である。もっとも、現在「ナンバン」と呼ばれる食品が、かならずしもすべて、この頃、紅毛人によってもたらされた物とは限らない。たとえば、「とうがらし」を「ナンバン」と呼ぶ地方もあれば、同じ名で「ねぎ」をさす地方もある。そば・うどんのたねものの一つ、鴨ナンバンなどは、「ねぎ」が入っているからである。つまり、「ナンバン」は、それまで知られていなかったものを呼ぶのに用いる傾向もあったわけである
参考資料「日本たべもの百科」新人物往来社刊